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同質性
  現実世界あるいは虚構世界において性欲と直接的な支配欲の充足を欲する者、虚構世界において恋愛物語を欲する(あるいは18禁ゲームにおいて物語を偏重する)者、現実世界の恋愛おいてコミュニケーションを強要する者、これらはすべて支配欲を発露させることによって間接的に身体的快楽を得ようとする点で同次元に位置すると言うことができる。
  しかしながら、現実世界の恋愛おいてコミュニケーションを強要する者は他の2者を見下し、虚構世界において恋愛物語を欲する(あるいは18禁ゲームにおいて物語を偏重する)者は現実世界あるいは虚構世界において性欲と直接的な支配欲の充足を欲する者を見下し、悦に入っている。上述の行為が互いに同質であることに気づかず、自らの行為こそが優れている/偉い/絶対的に正しいと勘違いしているのである。
  あるいは自らの行為の正しさを絶対化している、しかも論証なしに絶対化しているのではないにもかかわらず、同様のことにまつわる他者の行為を攻撃しているのであろうか。そうであるとすれば、自らは常に道徳的規範の側に立つとする一般人の考えと整合性を保持するためには、自らの行為の正しさを絶対化しているのではないにもかかわらず、同様のことにまつわる他者の行為を攻撃することが道徳的規範に含まれるということになる。ところが、一般人のなかで実際にそのようには考えている者はいない。これは紛れもない二重基準である。


  上とはまた別の例を挙げよう。(1)「突撃」を行うチャンコロ、(2)「突撃」を行うチャンコロを見下すチャンコロ、(3)(1)と(2)を「釣って」嘲笑する、あるいはオタク(ここではオタクが「多数派の価値観を基準にした場合における」程度の低い行為をする者として捉えられている)として嘲笑する者はすべて同質である。(このほか、代表的なチャンコロには、(1)〜(3)のいずれにも反発する、反2ちゃんねる的で、しかし(1)や(2)のようなチャンコロを忌避することはあっても、敵視することはないという者がある。)
  たとえば、(1)と(2)の関係については、暴行や殺人を行う者と、それを憎悪するがゆえに徹底的に攻撃し、その行為が正しいのは絶対であるとする、頭の弱い人間の関係に似通っている。(2)は、直接的に自らを社会心理的階級の上位者であると規定し、あるいは(1)が少数派であるという不利を突き、彼らの愚かさを共同でつくり上げることによって間接的に自らを社会心理的階級の上位者であると規定し、かつそうした社会心理的階級の上位者である自らは正しく、優れていると不当に絶対化するのである。(ここではまた、アニメを選好する者がその登場人物に欲情する者を、18禁ゲームを好む者が同じ18禁ゲームでも凌辱系のそれを選好する者をそれぞれ排除したいと願っているのと同様の光景を目にすることができる。すなわち、それぞれの集団の多数派がそれら集団の外部からもっとも忌避される部分を切り捨てることによって延命しようとするという構図が見られるのである。)
  (2)と、(3)の関係は、両者の行為、ならびに両者とも、お互いを社会心理的階級が低く、劣っていると見なし、嘲笑的態度を有しているという点を考慮すれば、単なる内紛であるが、当事者たちはそのことにまったく気づいていない。なお、(2)、(3)ともに、そのほとんどが自らは常に道徳的規範を遵守していると思い込んでいる者である。
  要するに、(1)、(2)、(3)はすべて(私が言うところの)一般人にほかならない。まったく、これには脱力させられる。


  なお、チャンコロを2つに分類しておいた(上記の(1)と(2)である)が、実は、荒らし行為をするチャンコロ(上記の(1)がこれに当たる)の種類はさらに3つに細分化することができる。一般的な受容性の程度の低い順、あるいは私個人の許容度の高い順に挙げていけば、(a)単純に荒らしを楽しんでいる者、(b)自らのことを正義であると思い込み、対象を徹底的に非難したり、中傷したりする者(彼らの多くは、研究者でないにしては、社会学や政治学の知識が豊富と思われる。そして、そうした知識を持っているのは当然であるという態度を有している)、(c)対象に対して心理的に上位に立ち、諭すように接することによって悦に入っている者である。

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作成日 2006年5月2日



関連項目

A 懐疑論とその限界
A 実践上の矛盾を巡って