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コンピューター・ゲームにおける「HP: 0」の再解釈
  「ゲーム内では人が死んだとしても、リセット・ボタンを押せば生き返らせることができ、これは教育上有害である」という趣旨の言説は定着した感がある。
  これに対する反論としては、教育上有害であるという部分が成功するかどうかに論点が置かれることが通常である。このウェブサイトの文章を読めば、そうした反論に属するもののうち私が行うであろう反論は推測し得ると思われるので、ここでは別の種類の反論を行いたい。
  それは、「HP: 0」=「死亡」説に対する反論である。『ドラゴンクエスト』シリーズのように、戦闘時のステータス画面の状態欄に「しに」と表示され、非戦闘時には棺桶画像が表示されるような、あからさまな虚構作品については申し開きの余地はないように思われるが、私の予想では、大部分のRPG類において、「HP: 0」は(「死亡」ではなく)「戦闘不能」と表現されている。同様に、その状態から戦闘可能状態にするための術や道具の説明として「戦闘不能状態を回復する」という趣旨の文言が用いられているのではないか。
  その場合、「HP: 0」を「死んではいないが、戦闘はできない状態」であると再解釈することが可能となってくる。これは、(テレビ番組などで映されるショー的戦闘も含め)実際の戦闘の場面を考慮しても、不自然な解釈ではないだろう。
  それでは、なぜリセット・ボタンを押さねばならないかということになるが、これについてはメタ視点の回答を与えることで十分なのだと思う。ここでのメタ視点の回答とは次のものである。すなわち、コンピューターRPGとは、「戦闘に参加しているすべての者が「HP: 0」になれば、リセット・ボタンを押すことによって前回の記録時点からやり直すことができるという規約を伴ったゲーム/遊び」である。対象の視点では、物語中の当該人物たちは単に敵対する何か(人であることもあれば、人外のものであることもある)に戦闘不能にされ、そこから先は何もされていないと考えることもできるのではないか。(中には、食人鬼のようなものや、人であっても息の根を止めるというところまで実行する者もいるかもしれないにせよ。)


  しかし、上記の見方には2つの難点がある。
  第1に、上記の見方は、解釈について虚無主義を前提していると思われるが、この前提の正しさは疑問視されている。なぜならば、解釈についての虚無主義では、記述されていない部分については端的に「ない」と考えるからにほかならない。たとえば、この世界に近い世界として描かれる文学小説において、前日の食事についてまったく触れられていない場合、前日に食事をとらなかったのではなく、前日に食事をとったかどうかという部分については何も(言え)ないのである。(したがって、描写間が抜け落ちているという断続的な世界観が提示されることになる。)
  第2に、上記ではメタ視点による答えを与えたが、この部分についての対象の視点、すなわち戦闘不能になって以降のこと〔敵が去っていったであろう後のこと〕についてはまったく無視してしまっているが、ゲームのやり直しが戦闘開始以前の時点からであることを考慮するならば、多世界説を支持せざるを得なくなる。しかしながら、論理学による虚構世界論に基づくならば、虚構世界について多世界説を採用するのはあまりにも分が悪い選択である。(『虚構世界の存在論』)

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作成日 2008年7月19日



関連項目

A 懐疑論とその限界
A 論理の重要性についての1節
A 意図と指示
A 現実と虚構(作品)を巡る批判と応答
B 特定の虚構作品群の擁護
B オタク概念の整備 要約版